米沢ののきもの 前回のつづき
いわば、ブランド高級スーツに身をつつんで黒塗りの運転手付きで通勤したい、夜な夜な銀座へ接待に行きたくてたまらないといった風情の重役たちから、強烈な徹底抗戦が始まるのです。率先垂範で倹約に努め、すべて包み隠さずに全員に現状を告げる鷹山公でしたが、贅沢な大好きな重役たちから批判の嵐。罵詈雑言の抗議文が山ほど届きました。やがて、役職の上下にかかわらず、身分の低い人の意見にも耳をかたむけた鷹山の改革は少しずつ実を結び始めますが、農民たちの生活はもともと質素でしたので、節約できるものは、もはや、何もありませんでした。節約だけでは立ち行かす鷹山の養蚕振興が始まります。自らが率先垂範して、水田を耕し、家中の武士たちも新田開発や治水にあたらせます。そういえば、米沢で取材中に食べたおいしかったことといったら。登城して雑談しているだけの武士たちも、体をつかって汗をかき何かを生み出すことに注力させました。領内の特産品をつぶさに調べ、米沢の気候、風土にあうものは次々に取り入れていきます。青苧、鯉、桑、楮、紅花などは米に代わって年貢になったり、他国へ行けば高価で取引できるものばかりでした。特に紅花は金よりも高額で取引されたといいます。生垣にはウコギを植え、いざといううときにウコギで飢えをしのぎました。直江兼続公のじだいからウコギはあったようですが、鷹山公が奨励したことかで格段に増えました。今も米沢のあちらこちらにウコギの生け垣を見ることができます。刈り取りが終わった田や池では鯉をかい鍬をふるうことのできない老人や子供たちが世話にあたりました。城の庭や武士たちの自宅の庭には桑をうえ、養蚕を始めました。これが米沢が着物の一大産地となる第一歩となりました。みすみす損すると分かっていても、正直な生き方をする意味のそんぴんという米沢の方言は、人をさげすむ言葉から、誉め言葉へと意味を変えていきました。貧しさゆえに当たり前のようにおこなわれていた、生まれたばかりの子を自らの手で葬る間引きや、労働力として価値を失った老人を捨てる姨捨も鷹山は禁じます。藩は藩主の為ではなく藩民のためにあるという信念を徹底的に貫いたのである。1782年から6年間及んだ天明の大飢饉では、南部藩、秋田藩などでは餓死者があとをたたなかったという、悲しい歴史がありますが、なんと、米沢藩では一人もださなかったのです。鷹山が行った多くの改革、殖産振興の中で最も力を注ぎ、最も大きな産業開発となったのが染織です。謙信のときから置賜特産の青苧はもともとは上杉領だった越後、小千谷縮の原料としてもちいられていました。鷹山はそれを原料として出荷するだけでなく、織物として付加価値をつけようと考えました。原料があっても、織りてのいない米沢に越後から機織りの職人を呼び寄せ高給をあたえて厚遇し、織りの指導にあたらせました。究極の質素倹約を続けながらも、必要なところにはきっちりお金をかけたのです。江戸城大奥では煌びやかな衣装で装うことを競い合ってた時代に鷹山はまず家中の女子に機織りを習わせ熟練してくると、続いて農民たちに教え、機をおらせました。ついに武士の妻たちも糸を染め機をおるようになり染織の一大産地への礎となったのです。今から二百年以上前に上杉鷹山の改革、殖産振興によって始まった米沢織はその精神とともに連綿と今に受け継がれています。米沢では現在も、着物や帯だけでなくおよそ布と呼ぶ物は服地、インテリアと広く新しいものを生み出し世界から注目されています。男物の袴に至っては全国の生産量の95%以上を占めています。麻により縮織りにはじまり、養蚕を盛んにした米沢では絹織物でも世界に誇る一大産地となりました。米沢の気候、風土に合うものは何でも取り入れ、正直に真面目に取り組むことで、無から有を生み出すことを米沢の人たちは知っています。
為せば成る
為さねばならぬなにごとも
成らぬは人の為さぬなりけり
鷹山のこの言葉は今も輝きを失うことなく、米沢の人たちに受け継がれています。米沢の着物を眺めているとこの言葉が聞こえてくるようなきがしませんか。米沢の市内には、通りの片隅などに草木塔が点在しています。草木にもそれぞれに精霊が宿るというう信仰から、草木から得られる恩恵に感謝をし、伐採した草木の魂を供養する心が洗われています。この地方ならではの草木塔を見かけるたびに、ものを大切にし自然に感謝するという米沢の人たちのDNAを感じ、ますます米沢が好きになります。 るるとより
日本の民族衣装である着物
その歴史は人の歴史であり文化です。いろいろな時代背景の中から、その土地で培われたもの。今回は米沢紬の歴史についての紹介でした。kiyoraは基本的には振袖のお店ですが、大きな意味で伝統文化もしっかりとバックボーンとして、このお仕事に携わっていけたらと思います。