信長から秀吉へ、そして家康へと、天下をめぐって、多くの武将たちが疾風怒濤のごとく駆け抜けた戦国時代。戦をするなら謙信のように、と後のよまで伝えられた天下の戦上手、謙信は、1530年、越後守護代の長尾為景の四男として生まれた。長子でなかったため、禅寺で育ちましたが、為景の死後、長尾一族を統一、後に山内家上杉家の養子となり越後から関東一円を治めます。甲斐から信濃へと進出していた武田信玄との川中島での戦いは、あまりに有名ですが、実はこの戦いは数年にわたって農閑期に行はれていたのです。士農工商の世が定まる前は、領民たちが鍬やすきを弓矢や槍に持ち替えて、農閑期にたたかっていたのでした。敵に塩を送るという
ことわざは、海のない武田領で常に塩が不足していいたため、謙信が信玄に送ったという話からきています。戦上手で勇猛果敢なイメージが強い謙信ですが、実は慈悲深く、文学に造詣が深く、道義にも篤い文武両道の人でした。上杉家の当主を二代にわたって殺害した父親からは下克上の戦国を生き抜く処世術を、勧世音菩薩の信者だった母から慈悲の心を受け継いでいたのでしょうか。謙信は信長との戦いでも大勝し、後の世に上杉に逢うては織田も名取川はねる謙信逃ぐるとぶ長と狂歌に詠まれたほどでした。しかし関東大遠征の直前、四九歳の謙信は脳溢血で倒れてしまいます。敵に送るほどあった塩分の撮り過ぎだとしたら、シャレになりません。毘沙門天の化身は天下への夢を秘めたまま無念の死を遂げました。謙信の死後、二代景勝が家督を継いで、越後の平定に注力。米沢藩主としては初代となります。同時に豊臣大名として勢力を拡大していきます。その後1598年に越後91万石から、会津へと移封をめいじられて、120万石になり、豊臣五大老の一人となりました。なぜ、移封?なぜ加増?と謎の多いいことですが、その理由は憶測も含めて数多くありますので、ここでは割愛いたします。景勝は、天下分け目の関ヶ原の合戦で豊臣がはについたことから、家康によって米沢に移封され領地は四分の一の30万石となりました。三大綱勝が世夭子をさだめないまま夭折し、養子の綱憲が四代藩主となった時にはさらに一五万石に米沢藩の困窮が始まります。景勝は会津からすべて藩士を連れ、米沢に入ってしまったので、会社で言えば売り上げは四分の一で社員数は今までどおりという、倒産間違いなしのかなり厳しい構造だったところへさらに売り上げ半分 急遽四代目として養子に迎えられた綱憲は忠臣蔵で有名な吉良上野介の子ですが、これが火の車を巨大にしていくのです。ドラマや映画のとおり、実父の上野介は礼儀指南で財政よりしきたりを最も重んじました。実父上野介の指南により、綱憲は行事や交際では見栄を張り、金に糸目をつけません。うるさそうな藩士には高給をあたえて口を封じ、おとなしい藩士の給料は値切るというめちゃくちゃな経営は綱憲の後も続き五代吉憲、六代宗憲、七代宗房、八代重定、と借金は膨大にふくれあがるばかり。九代として養子に入ったのが上杉家中輿の祖といわれる上杉鷹山公その人。家老たちは疲れ果て、考える力も失い藩政返上が叫ばれているところでした。ちなみに米沢の人たちは忠臣蔵をあまりみないと、取材でたちよった店の方がおっしゃっていました。実は鷹山公も上野介の孫娘のそのまた孫娘を母にもつ、いわば、上野介の子孫。上野介は贅沢な政治指南で米沢藩を困窮のどん底に導いた真犯人みたいなものですからなんとも皮肉なことです。鷹山は幼名を松三郎といいました。後に直松と改め10歳で上杉藩に養子に入った時に直丸勝興に。さらに元服後に治憲と改め、晩年にやっと鷹山です。ご存じの通り、藩主の妻子は江戸に置かれた時代。日向高鍋藩三万石から東北の米沢藩まで、10歳の子供が長旅かとおもいきや、実は江戸屋敷から江戸屋敷へという近所の引っ越しでした。しかし、引っ越しは楽でも上杉家へ養子入りした後は楽ではありません。藩主ですから、帝王学を徹底的に叩き込まれます。師は折衷学派の儒者、細井平洲。朱子学、陽明学などを単に読み解くだけではなくて自分のものとして実践を重んじる学派でした。さて、17歳の鷹山が最初に着手したのが大倹約でした。いわゆる、どこの会社でも試みる経費節減運動です。参勤交代の行列を減らし、藩主でありながら普段は木綿の着物、食事は一汁一菜、上野介から続いた音信贈答の習慣を固く禁じました。自分の生活費は1500両から200両へ、奥女中は50人から9人へと減らし、上野介指南の見栄の生活はここで終わりを告げるのですが、さてここからが大変です。 つづきは又次回 るるとより抜粋